戦国時代の井上氏の鐙(浄運寺蔵)

源三です。

汗ばむ陽気に半袖で過ごす日も増えてきました。今回からは井上産あるいは井上育ちと称される歴史的名馬についてまとめてみたいと思います。

井上が名馬の産地として歴史的(というよりも、文献上で)に有名であったことをご存知でしょうか。

馬の牧場である御牧は醍醐天皇の延喜式の頃から整備され、朝廷の左右馬寮直轄牧場として、甲斐・信濃・武蔵・上野の四国に設置されました。各牧場の産馬はその優良なるものを選んで、毎年朝廷へ奉ることから貢馬と称したそうです。信濃の馬は剛健な上に、性質が非常に順良であると言われております。清和天皇の頃、貞観7年から信濃の貢馬の検閲日(駒牽)を8月15日と定めたそうです。満月の日であることから、信濃の貢馬は、「望月の駒」と呼ばれるようになったといいます。

最近では、井上の名馬として最も有名な井上黒について、紙芝居として子供向けにまとめられていたりするそうです。また、Web上で調べてみましても井上黒について言及しているいくつかのサイトを見つけることができますので、それなりに知られてきたのかもしれません。

井上産・井上育ちの意味

まず井上産や井上育ちとはどういうことかについて考えてみたいと思います。

別記事でも紹介することにもなりますが、『平家物語』第九巻「知章最期」に登場する「究竟の息長き名馬」は、信濃の国の井上で育ったことから、「井上黒」といわれることが述べられております。つまり、鎌倉期において井上には名馬を産する牧があったと考えられます。ただし、「井上牧」というような牧は『延喜式』の信濃御牧にはなく、鎌倉時代には「井上郷」、戦国時代には「井上庄」としての表記しか見つけ出せません。このことから、井上産や井上育ちの馬という意味には二つの可能性があるのではないでしょうか。

 

  • 1.信濃井上に中世頃に起こった牧で産まれ育った馬
  • 2.井上氏が支配していた牧で産まれ育った馬

 

地形状の問題や遺跡の有無により、1. についての可能性を否定するような説もあります。しかし、井上産の名馬はかなり知れ渡っていたようで、後世に与えた影響はかなり強いものです。

例えば、聖徳太子が乗ったとされる甲斐の黒駒は、『文保本聖徳太子伝記』の中で信濃国の井上育ちとされ、信濃から甲斐へと飛行する神異性を帯びることになります。

また、『川角太閤記』に記されている明智秀満(光秀の重臣)が乗っていた大鹿毛の馬も井上育ちといわれることから、井上鹿毛といわれます。

なお、『信長公記』にも、武田勝頼の乗馬大鹿毛が信長に献上されたが、大鹿毛は信忠に譲った旨が書かれています。ただし、「大鹿毛」が固有名なのかは不明で、秀満が乗った大鹿毛と同一なのかは定かではありません。一般的に、三色の毛が生えている猫の総称を三毛猫というように、体部は茶褐色であり、たてがみ・尾・脚先は黒の毛並みをもつ馬のことを鹿毛と総称していたことも考えられます。

少し話が脱線しましたが、井上産の名馬というのは確かに有名であり、歴史的な名馬に井上の字が冠されて固有名となることや、歴史的名馬に井上育ちであるという脚色が加わる例があることからも、必ずしも井上牧の存在を全否定することはできないと考えます。

さて2.についてです。この場合、井上の地で育った馬という意味よりも、井上氏が育てた馬という意味で理解したほうが適切でしょう。

先に述べましたように、『延喜式』の信濃御牧には「井上牧」なるものはありませんが、実質的に北信濃を支配してきた井上氏ならば、高井郡にあったとされる大室牧などの御牧も井上氏の管轄であったことは考えられることだと思います。

 

次回からは、各名馬の伝説などをまとめてみたいと思います。